子宮頸がんブログを書いていて変な主治医エピソード、イタリアで大出血エピソードついでに思い出した。私がローマで盲腸になったときのトンでも イタリア入院 &手術エピソード。
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イタリア、ローマで盲腸から腹膜炎
2003年秋。
大学生だった私が居たのはローマ。
その年、初めてのイタリア行きで、いきなり5カ月住むことになった。NYのコーネル大学建築学部に在籍していた私は、建築学科の慣例となっているコーネル・ローマ・プログラムに参加したのだ。
これは交換留学ではなく、同大学のローマキャンパスが(キャンパスとは言えない規模だが)あるようなもの。
行くまでは正直言って、このローマ・プログラムに乗り気でなかった。親に勧められるままにイタリア行きを支度し、言葉なんて全く話せないまま、その年の8月の下旬にローマに着いた。
全く乗り気でなかったのに、着いてみたらローマの街のショーウィンドウを見てファッションにハマり、朝市を見て食文化にハマってしまった。どっぷり。
そんな風にしていたら、数か月があっという間にすぎ、10月も終わりに差し掛かっていた。
痛みは運悪くローマの休日に
その日は日曜日。朝起きると、なんだかお腹が重く痛い。内臓がなんだか気持ち悪い。きっとお腹が空いているんだろうと思って、台所でブランチを準備して食べる。
食べ終わって少ししたら、余計に痛みが増してきた。痛みが増してきたというか、我慢できない。とりあえず横になっていれば・・・・。そう思ってベッドで突っ伏しているも、全くマシにならない。痛すぎて横になっていることも苦痛。
お腹のどこが痛いのかと聞かれても答えられないような痛み方。痛みが胴体部に満杯になったような。背中側からも、胃も、下腹部も、全部が痛い。取り合えず、食中毒とかではない痛みな事は確か。
「変なものでも食べたんでしょ」
悲しいかな、シェアメートたちには軽く捉えられてしまった。自分だけしか理解できない、他に伝わらない痛さ。痛いのに痛いと思ってもらえない時、痛みは増す気がする。
とにかく我慢もしても月曜までこの状況を続けるのは無理。そう判断して、大学のセクレタリーに電話をした。事情を説明しても、日曜なので明日まで待つよう言われるが、その後何度も電話して病院に行くことで合意となった。
午後にセクレタリーが迎えに来た時の私は熱もあり、何度かトイレで吐いた後だった。腹痛は強くなる一方。
大学が指定する病院に行く必要があるとかなにかで、アメリカ人の女医のクリニックに連れていかれた。
指定されるからには、大学で入っていた年間1000ドルの保険が使えると思いきや、1セントも出ないことがこの後判明するのだが・・・。何のための保険やねん・・・
診断1「あなたは摂食障害よ」
女医のクリニックは混んでいた。待っている間に嘔吐する事2回、1時間ほどしたところで女医の診察に呼ばれた。
もう辛さで朦朧としているのだが、体重計に乗ったことは覚えている。体重45キロ。
女医のオフィスは広かったことは覚えている。女医の診察がどんなふうだったか、もうほとんど覚えていない。一応おなかとか触って「ふーん」てされたのは覚えているが。診察は、それくらいの軽い早いものだった。
立派なデスクで向かい合って座り、女医に尋問、いや問診された。
「細いわね。ちゃんと食べてる?」
「毎日めっちゃ食べてます」
「・・・わかったわ」
「?」
「いつもこうやって吐いてるの?」
いつも?どういう意味?
「指を喉に突っ込んで吐いてるのかって訊いてるの。手を見せて。」
ハイ???何言ってるんだ、このオバサン。なんか変な方向に思考が行ってしまっている。修正せねば。
「いや、人生で一回も故意に吐いたことないし、だいたいこの痛みは食べたものがどうとかじゃなくて。そういう痛みじゃないと思って。原因が分からなくて病院きてるんですよ。」
聞いて。私がやせてるのは毎日10キロ歩くからなの。拒食症とか習慣的に陥ってる悩みだったら、わざわざ日曜に無理やり病院来ないから。
「私にはわかるわ。これは過食と拒食が原因ね。なんにしても私には摂食障害をどうすることもできないのよ。セクレタリーを呼んで」
患者の症状を無視して、見た目で決めたのであろうか。身長170センチ、体重45キロって風貌で。診察結果で判断するのではなく、先入観で結論出すタイプの医師にこんな時にあたってしまうとは・・・。
血液検査も何の検査もこのクリニックではしていない。が、医師のバイアスがかかった脳内で作り出されたエビデンスによって、診断は確定してしまった模様。
私の話を聞く気の全くないオバサン医師は、大学のセクレタリーを部屋の中にいれ、私を部屋の隅に押しやった。
「今診たんだけど、この子は摂食障害があるわね。これが原因で症状が出てるとみて間違いないわね。」
「そうなんですか・・・」
「ダイエット目的で常習的に吐くの。この年齢の子には多いのよね。取り合えず、うちでできることは何もないから。もっと大きな病院に行くしかないわね。」
――オエっ――。辛いと思って聞いていたら、吐き気にノックダウンされた。このタイミングでクリニック3回目の嘔吐。
「ここで吐かないで(# ゚Д゚)」
女医の声が聞こえるが、構ってられない。吐き気も腹痛もコントロールできない―――
診断2「お腹を切って開けないと」ローマ・アメリカンホスピタルへ
必至にクリニックで会計を済ませたのは何となく覚えている。この状態でタクシーに揺られる気持ち悪さを存分に感じながら、私は市内中心から離れた病院に向かっていた。外はもう暗く、結構な渋滞が続いている。頼むから早くついてくれ・・・。
着いた先はRome American Hospital (ローマ・アメリカン・ホスピタル)。http://hcir.it/romeamericanhospital
どうやら私立病院のERなよう。
痛み・熱・吐き気を耐えるのに必死な故、ほとんど記憶がない。というより、ちゃんと周りを見て記憶できる状況ではなかった。検査は何をしたんだっけ・・・。レントゲンは取った気がする。
当時の私は、ほとんどイタリア語を理解できなかった。アメリカ人と生活して英語で授業を受けて、週末は同じメンツで研修旅行だったため、ほぼほぼ英語オンリーの生活を何不自由なく送っていた。
対するこの時の担当医師は、ほとんど英語を話さなかった。病院まで私を付き添ってくれたセクレタリーが医師から説明を聞き、私に訳してくれる。
「まずは、お腹を開けてみる必要があるって。どうする?」
「なんでもいい。この痛みがなくなるなら。おなか取ってしまいたいくらい痛い。」
まだこの時、私は自分が盲腸であることは認識しておらず・・・。おなかを開ける承諾をした後は、ひたすらベッドで転げていた。
そこから後は記憶らしい記憶もなく。寒さで一度目をさました時に何人ものイタリア人に取り囲まれてブツブツ言われていた所の映像は頭に残っている。それが手術の前だったのか後だったのか分からない。
イタリア入院 ・腹腔鏡手術費用はおいくら?
次の日。起きたら明るかった。大きな部屋にひとりぽつん。
起き上がろうとしたら、ツーンと痛くて力が入らない。左下腹部の傷にそのとき気づいた。
正確には3点。おへその所の傷ちょこっと、その4センチくらい下7センチくらい左にちょこっと、そしてそこから6センチくらい下腹部に3センチ幅くらいの傷がある。この一番下の傷の近くが痛むみたいだった。
この日初めて理解した。腹膜炎で腹腔鏡手術を受けたこと。盲腸は壊疽していたとのこと。
そして、その翌日、理解した。入院手術費用がおよそ100万円であること。(入院日数は結局トータル3泊4日)
この保険請求のため、連日終日にわたって国際電話をかけまくることになる。結局、大学の方で入っていた保険は一切降りず、クレジットカードについていた東京海上の保険が頼みの綱となったため、ヨーロッパの関連会社に電話することに。
だが、どこへ電話しても「うちは担当じゃない」とたらいまわし。フランス、イギリス、日本、マルタ?とにかく、その一か所にかけては別の拠点を案内され、グルグル責任を他国の担当者にパスされながら電話しまくり。電話代だけでもかなりのものになっただろう。それに痛みに耐えながらのこの作業。
このプロセスで保険請求あきらめる人もいるだろうな・・・。英語ができない人だったら確実に交渉断念だ。
実はこのころ、2003年というのはリラからユーロに通貨が切り替わってから、まだ1年。という事で値段が両方が表記されている事が多かった。私のイタリア入院 /手術日というのもユーロの横にリラ表記があり、どうやらリラの数字をユーロに思い違えて「こんなの払えるわけない」(1ユーロ=1900リラ)と思った担当者に散々たらいまわしにされたようである。
イタリア入院 中の食事ってどんなの?
手術から目覚めた日から数日間、私はイタリアの病院食というものを味わった。病院食というのは、味気ない食感のつまらないものを食べさせられてこそ病院食という呼び名が似合う気がする。
私が食べたのはどちらかというとイタリアの学食みたいな内容だった。
イタリアの病院食はフルコース
プリモ(主食)はパスタ。
セコンド(メイン)はスカモルツァチーズを乗っけて焼いたチキンとか。ローストビーフOrローストポークとか。ローストチキン(丸ごとの1/2にカットした豪快な形で登場)とか。
コントルノはゆでて炒めたほうれん草、ベイクドポテトなど。パンもついてる。
デザートはアップルケーキなど。
つまり軽くフルコース・・・。意外と美味しい。
病院食っぽかったのは、最初の日に出たスープパスタくらいか。それでも、パスタだけが出たのではなく肉のセコンドも出てきたので、やはり私の病人食のイメージとは遠く。
入院患者と勤務医は同じ食事
退院前日、病院内のメンサ=食堂に降りていってみた。ローマアメリカンホスピタルはちょっと辺鄙な所、繁華街からは遠い所にあるからか、多くの従業員は病院内で食事をしているのかも。医師などでメンサは混みあっていた。
そのメンサの提供している料理をまじまじと見てみると、そこには病人の私に出されたのと全く同じメニューが並んでいた。つまり入院患者のメニューは医師や従業員の食堂ラインナップからピックアップされていたの。か・・・もしくは、患者にも医師にもベストフィットな食事内容だったのか・・・真実は謎だが。
なんとなく、日本の病院で医師が患者と同じご飯を食べているとは想像しづらいのだが・・・。病院食のカロリーだと医師の体力って持たなそうだ。
ちなみに、私は手術翌日には点滴を外していたのだが、この日も手首に点滴の管はささったまま。
点滴の管を人質に=支払い終わるまで管抜かないよ
翌日、退院の予定日に、母が日本からローマアメリカンホスピタルまでやって来た。英語もイタリア語も出来ない母がローマ中心地から離れた病院までよく一人で来てくれたと思う。
母が病院に着いて退院手続き中も、私の手の甲には点滴の管がまだ刺さっていた。何度か抜いてというお願いをしていたのだが・・・。この日、母が会計をした後、退院をする10分前になって、やっとのことで点滴の管を手から抜いてもらうことができた。