英語学習への取り組み、姿勢の違いは、身につくアウトプット・インプット力の両方に差を産み、英語でのコミュニケーションの場でその結果を露にする。
しかし、言葉の壁を破ったところで、その人が元々他国に対する偏見と自国へのプライドで塗り固められた思想を持っていたら、結局は「言葉は通じるのに、会話としては通じない」状況が生じてしまう。
どういうことか。
英語は、英語が母国語でない人たちが使うから重要になる公用語だ。英語が母国語でない以上、言葉のチョイスもそうだが、元々自分の国の言葉で慣れ親しんだ発音、発声、アクセントが習得言語を話す際にも反映されてしまう。
習得した言語に、自分の国の言葉にない音があるから発音が困難な場合もあるが、そもそも習得言語の特徴を聞き取る耳が無い事も多い。聞こえていないのだ。そして自分の発声している習得言語の発音は、聞き取ったものを忠実に再現しているはずであると疑わない状態。
日本人が西洋人に対して、「わたし(日本人)は綺麗に発音しているのに、相手が聞き取れない。つまり相手が英語が話せないのだ」と認識することは少ないだろう。英語は西洋の言語だし、日本人は発音が下手なのを自覚している。そして、その自覚が英会話の壁を更に高くしている事もしばしば。
しかし、西洋人でも非常に強いクセを持って英語を話す人はたくさんいる。西洋人は逆に、本来の英語からはほど遠い発音とアクセントで話していながら、自分は完璧に話せているという自負がある人も多い。(もちろん素晴らしく美しい英語を話す外国人の母数も大きいが)その結果、旅行先、出張先で出会った人達と会話が成立せず「なんだ、この国の人はみんな英語が話せないのか」となるのだ。
こういった結論に至る大きな要因は「驕り」である。
例えば、日本人の多くは英語を使いこなすことができないのは事実だが、別に他国がすべて英語を使いこなせる国民なわけでもない。というか、英語に比較的近い言語の国の人達でも大抵は通じない。これが当たり前だ。スウェーデンのように徹底した国々を除けば、英語を母国語としない国へ行って、適当に英語を話したらスムーズに通じてしまったらラッキーと思うくらいが妥当である。そう思えないなら、自分が驕りの上に生きていないかどうか自問したほうが良い。
先日、ニューヨークに長年住むイタリア人のエリート・ビジネスマンと知り合ったのだが、まさに上記のような「驕った」感覚を持った人々だった。
「イタリアだったら都市部にいけば、4ツ星ホテルで英語が通じないことなんて有り得ない。なのにここ東京と来たら、泊まった4ツ星ホテルは二箇所とも英語がスムーズに通じなかったんだ。観光も、NYに住んでる僕から見れば東京は目新しさはないし・・・」
この発言とその続きには、多くの独断と偏見とプライドがひしめいていたが、ここでポイントアウトしたい明確な誤りが2つ。
主張:イタリアの都市部だと高級ホテルで必ず英語が通じる。
実際:イタリアの都市部の高級ホテルでも通じないことは多々ある。
オリンピックが開催された年のトリノの唯一の5ツ星ホテルでも、フロント、レストランにおいて英語が通じなかった。まともに通じたのはマネージャーだけである。
ローマの4ツ星ホテルへ電話をかけたら、話の最中に「you not speak English」と言われて切られたこともある。
イタリアも日本も都市部であっても、大部分の現地人は英語でいきなり話しかけられて理解できるほど英語に慣れていないのだ。もっと言えば、ローマにある省庁で私が通訳を務めた際、英語は通じずイタリア語オンリーだったのは2013年という最近の話。イタリア人は英語が通じるけど日本人は通じない、というのは単に偏見と自国至上主義からくる思い込みだ。
この時、彼らが披露してしまったもう一つの残念な誤った認識がわかるのが、「ニューヨークに住んでいたら、日本の東京は別に見るところがない」という発言。場所が変われば文化も違う。人も食も習慣も違うというのが見所の一部である。高層ビルがいっぱいあって、NYの方がモダンだから東京は見る価値感じないというのは観察視野が狭すぎる。
驕っていると、視野が狭くなる。
外国とビジネスがしたい、外国で何かしたい、外国に行ってみたいと思い、その国に自分が入っていくなら、「英語ができれば通じるのは常識」ではなく、「そこの母国語でコミュニケートする」くらいの覚悟は持っておこう。
高級ホテルに泊まったから当然英語で対応してくれるんだと思っていて、相手が「???」という顔を浮かべたとしても、「あ、現地人とリアルなコミュニケーションがとれるチャンスじゃん」とか「あ、またこれでネタがひとつ増えたな」と思える柔軟さがないなら、最初から自分の殻に閉じこもっておけば良い。
英語でコミュニケーションすることなんて、自分と違う文化背景、生活背景、環境から生まれた視点を発見するためのツールのひとつに過ぎないのだから。